191215翻訳会議

11 世界末日的风景

先看非斯

在这次旅行过程中,我多次向阵内秀信先生请教。
多年来他一直是研究以意大利为中心的地中海城市村落研究的领头人。
至今他已经教授了我关于地中海各地的整体知识。
在访问西西里岛之后,为检讨下一个北非大陆的目的地,我再次敲响了他研究室的大门。

在一通整体的说明之后,他笑着说,“也就是说,就是要‘先看非斯然后再死’呀”。⭐这个双重引用的意思要确认。看完再死是当地的一句俗语吗,就像中国人说的不去长城非好汉之类的?
也就是说,不管从哪种意义上来说,从摩洛哥的非斯(Fas)上可以学到的东西都是压倒性的多的。

“话虽如此,北非由于一直处于法国的殖民地统治之下,所以主要的语言是阿拉伯语系的各种方言和法语。
好歹你会说法文吧?”

“一边慢慢想一边勉强能说几个词程度吧”

“那这样把,你可以向我之前的学生新进勇治先生哪儿打听一下关于这个地区的情况再去。”

新井士在爱知地区做教学工作的伊斯兰都市研究的学者,我跟他取得了联络,他在繁忙的教务中抽出空,于此我们名古屋车站见上了。
我从他那儿得到了以突尼斯,摩洛哥为主的北非各都市的详细街区地图。
突尼斯的苏塞(Sousse)、凯鲁万(Kairouan),摩洛哥的马拉喀什(Marrakech)、非斯(Fas)。
全都是以其迷宫似的构成而为人所知的麦地那(Medina),也就是旧街区地区的图纸。⭐訳注,麦地那(Medina)在摩洛哥一般意思为旧街区,老街道。另有伊斯兰圣地的之一的沙特阿拉伯的都市也叫麦地那(Medina),有些混淆。(https://welove.expedia.co.jp/destination/middle-east/morocco/1350/)
图纸上不是仅有屋顶平面的图纸,有些部分连室内简单的房间布局都画了出来。
也就是专业术语中所谓的“连续平面图”,因为内部的房间布局和室被连续的表现出来,所以更助于想象人们日常生活的样子。

叙利亚,2004年

我跟新井先生之前就认识。
曾经作为某个研究的调查队队员,一起去往过叙利亚的旅程。
那是2004年的冬天。
新井在博士在读期间,由于他同时在籍于大马士革大学(University of Damascus)等当地研究机关,他提出了做那个研究的邀请方。⭐ホスト怎么翻,我想语境的意思是主持人,邀请者,当地的案内者
在伊朗给我们带路的深见小姐也是那个时候认识的。
在日本人学者们一直使用的首都大马士革(Damascus, 33°30’47″N, 36°17’31″E)的住处过了夜之后,第二天我独自散步在清晨的街道。

图64 北非的访问地

那个旧街区的称呼ーー麦地那(Medina)近在咫尺。
穿过火车站,走过步行桥之后,在那近代化的都市街道风景里,麦地那的漆黑的入口突兀的张开着它的嘴。⭐文学大师们改改把。。。
那是露天市场哈米迪亚集市(Al-Hamidiyah Souq)的入口。
一片漆黑,那是因为街道的店铺还没开门,也是因为拱廊(Arcade)的天盖罩住了街道。
光线从连绵不绝的拱顶的铁皮天盖的接缝处漏进来,
通过这一丝丝光的痕迹,可以知道通道一直延伸到对面(204页中部照片)⭐中段写真中文怎么说?

图66 巴尔米拉遗迹的列柱大道(值得注意的是,与大马士革的市场大道有着相通的比例构成)

图65 构成大马士革市场大道的骨骼的罗马遗迹

有一种非常奇妙的感觉。
那是因为,通常麦地那的小路都是复杂交错的,没想到这里的路竟然很直可以看到路的前方。
一边走一边观察。
天盖大概是由20世纪前半左右的类似铸铁的纤细材组成的,在射入的光线下,展示着她纤细的骨架。
那好似褶皱般神采奕奕的空间,跟欧洲的拱廊街(passage)是相通性质的。⭐日语的襞可能是,心灵的褶皱的意境,或者和服的褶皱的光泽之类的。不知道这个要怎么翻了。。。可以OB会问问中谷
有几个较大的面对着大道,有大量密密麻麻的商店挤在里面开间很小。⭐いくぶん大きいその通りに面して、这是病句??
然而这些商店们支撑着天盖,加上作为建筑构造的列柱排列得非常整齐,这个麦地那显得格外规则明了。
这个宁静的景观大约持续有一公里后结束。
拱廊的天盖突然消失了。

突然袭来的强烈阳光抹去了眼前的景色。
简直搞不清楚在这一瞬间之间到底发生了什么样的变化。
确认了手中的地图,这里是朱庇特神庙(Temple of Jupiter)遗迹的广场。
然而,朱庇特神庙应该是罗马帝国时代的建造物。
不经意回头望去,那一路走来的支撑着天盖和两侧商店街的那些柱子上留有柱头,才发现那是罗马时代的遗迹。
集市的路之所以那么笔直,是因为那是罗马时代建造的东西方向的大道,也就是所谓的Decumanus中的其中一条大道。⭐訳注Decumanus Maximus:指在古罗马的城市里东西方向的大道。它与南北方向的大道主干道Cardo Maximus相交,路口经常会建有广场并且附近经常建有一个广场(Forum)。另外,东西方的街道也简称为Decmanus。

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伊斯兰都市的印象

众所周知,罗马帝国的殖民都市的都市计划法里有规定。
首先,先将都市的范围用四方城墙围起来,铺设两条在中央交叉的大道,沿着这两条道路设置广场(Forum),公共浴室,食堂,喝酒小店,市场,圆形斗技场等公共设施。
而道路以及道路周边以外的地方则作为游休地(空白的地方)空置着。罗马帝国采用的是这种计划手法。
以大道为起点,商店一一建造起来,游休地里则渐渐的有住宅形成。

麦地那之中沉睡着罗马帝国的殖民都市。
这是个大发现!
赶紧回去,很兴奋地向还没来得及吃早饭的新井和深见报告了此事。
他们笑了,告诉我说,这个地区的很多伊斯兰都市都是用留下来的罗马时代的殖民都市作为骨骼来发展起来的。
从当时开始一直到现在,伊斯兰人就将过去的政权下建造出来的都市,一边巧妙地持续利用一边将其完成为他们自己的宗教空间了。
这个早晨的体验,成为了我初次在伊斯兰都市的邂逅。
这让我脑海中的对伊斯兰都市的印象里,不仅有着迷宫的原理,还带来了异类的过去和文化互相重叠后造成的一种更加温婉的都市印象。

这之后,我们来到了著名的世界遗产之一巴尔米拉(Palmyra)。
一边感叹着那到处滚着的雕刻物,感叹这材料是那么上等,感叹这都市的骨骼是如此整齐笔挺时,我注意到那贯穿着巴尔米拉的Decumanus的宽度,与大马士革的市场的宽度几乎是同等程度的。
也就是说,罗马殖民都市的废墟成为了世界遗产,而继续被使用下来的罗马都市变身为麦地那而活了下来。这原来是一个悖论。⭐パラドックス是悖论,那么逆説应该怎么翻。。。

11ワールズエンドの風景

フェズを見てから

この旅をするにあたって何回か陣内秀信氏に教えを乞うていた。
イタリアを中心とした地中海都市・集落研究を長年にわたって率いてきた第一人者であった。
これまでにも地中海各地全般の知識を教えてもらっていた。
シチリア訪問の後に、向かう予定であった北アフリカ大陸の訪問先の検討のために再び彼の研究室の扉を叩いた。

一通りの説明の後で彼は「つまり、〝フェズを見てから死ね〟ということだね」と笑った。
とにもかくにもモロッコのフェズから学ぶことは圧倒的であるという。

「とはいえ、北アフリカはフランスの植民地支配がつづいたおかげで、アラビア語系の各方言とフランス語が主要な言語だ。
せめてフランス語はしゃべれるの?」

「ゆっくりと考えながら一語ずつ話せるかどうか」

「では、この地域については僕の教え子の新井勇治にたずねてから行くといいと思う」

愛知方面で教職についていたイスラーム都市研究者の新井に連絡を取り、彼の急がしい校務の合間をぬって名古屋駅で会った。
彼からはチュニジア、モロッコを中心とする北アフリカ各都市の詳細な街区の地図をもらった。
チュニジアのスース、ケルアン、モロッコのマラケシュ、そしてフェズ。
いずれも迷宮として知られるメディナつまりは旧市街地区の図面である。
そこには単なる屋根の形だけではなく、部分的には簡単な室内の間取りまで描かれている。
専門的には「連続平面図」といわれているもので、間取りから外までが続いて描かれているため、人々の日常の動きが想像できる。

シリア・二〇〇四年

新井とは旧知であった。
ある研究による調査隊員としてシリアを一緒に旅したのだった。
二〇〇四年冬のことだった。
新井は博士課程在籍時にダマスカス大学等現地の研究機関に在籍、その地の利を生かしてホストを申し出た。
イランを案内してくれた深見ともこの時に初めて会った。
首都ダマスカス(Damascus,33°30’47″N,36°17’31″E)の日本人研究者たちの常宿に泊まった次の日、一人で早朝の街を散歩することにしてみた。

図64 北アフリカの訪問地

旧市街の呼称であるメディナまでは目と鼻の先だった。
鉄道駅前を通り過ぎ、歩道橋を渡ると、近代的な都市の街並みにいきなり、メディナの真っ暗な入り口が口を開けていた。
大きなスーク(市場通り)AlHamidiyahSouqの入り口だった。
真っ暗だったのは、通りに並んだ店がまだ開いていなかったからであり、アーケードのアーチの天蓋が通りを覆っていたからだった。
ボールト状につづく鉄板葺きの天蓋の継ぎ目から光が漏れていた。
その光跡から通路がまっすぐに向こうの方へ続いていることがわかった(二〇四頁中段写真)。

図66パルミラ遺跡の列柱通り(ダマスカスの市場通りと似通ったプロポーションであることに注意)

図65ダマスカスの市場通りの骨格を構成するローマ遺構

奇妙な感じがした。
というのも、通常メディナは路が入り組んでおり、そんな見通しは期待できないと思っていたからであった。
歩きながら様子を見る。
天蓋は二〇世紀前半ぐらいの鋳鉄のような細い部材で組まれており、差し込んだ光を受けその繊細な骨組を見せていた。
襞のように輝きつづく空間はヨーロッパのパサージュと同質のものであった。
いくぶん大きいその通りに面して、たくさんの商店が狭い間口をひしめき合わせていた。
しかしそれらは、天蓋を支え、建物の構造にもなっている整然とした列柱のせいで思いのほか規則的であった。
一キロ近くも続くであろう、その静かなスペクタクルが終わった。
アーケードの天蓋がふと消えたのだ。

いきなり強い陽差しが入り込み眼前の景色を消した。
一瞬どのような空間の変化が起こったのかおぼつかなくなった。
手許の地図を確認するとそこはユピテル神殿跡の広場であるという。
ユピテル神殿はローマ帝国時代の建造物のはずである。
さては、と後ろを振り向くと、今まで歩いてきた天蓋と両側の商店を支えてきた柱に柱頭が載っておりそれがローマ時代の遺構であったことに気がついた。
スークの道がまっすぐだったのは、それがローマ時代に作られた東西通り、いわゆるデクマヌスの一本だったからだ。

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イスラーム都市のイメージ

周知のようにローマ帝国の植民都市の計画法には定則があった。
まずは都市の領域を砦で四方に囲み、中央で交差する二つの大きな計画道路を敷設し、その道に従いフォルム(広場)や公共浴場、食堂・酒場、市場、円形闘技場等の公共施設を配置する。
そしてその道周辺以外の地は遊休地(余白の地)として残しておくという方法であった。
その道を起点として、商店が建ちならび、遊休地においては徐々に住宅が形成されていくのであった。

メディナの中にローマ帝国の植民都市が眠っていた。
大発見だった。
急いで取って返し、朝食前の新井や深見らに興奮気味に報告した。
彼らは笑って、この地域の多くのイスラーム都市は、ローマ時代の植民都市を骨格にして発達したことを教えてくれた。
当時よりイスラーム人は、過去の為政者の作った都市を巧妙に使い続けながら自らの宗教空間を完成させ、今に至っているのだという。
この朝の体験が、わたしの初めてのイスラーム都市との出会いとなった。
それはイスラーム都市に、迷宮の原理のみならず、異質な過去や文化を重層させたより柔らかな都市のイメージを与えた。

その後著名な世界遺産の一つであったパルミラ遺跡に立ち寄った。
随所にころがっていた彫刻や素材の上質さや都市骨格の整然さに感嘆しながらも、パルミラを貫通するデクマヌスの幅が、ダマスカスのスークの幅とほとんど同一のスケールであることに気がついていた。
つまりローマ植民都市の廃墟は世界遺産となり、使われ続けたローマ都市は、メディナにその姿を変え、日々に生きてきたという逆説である。
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