191024

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夢ナビトーク
なぜお年寄りに席を譲るか、利己主義か

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アモルフのHP、気になる、格好いい

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プロセスファイブという大阪の設計事務所の記事
竹山邸バーベキューパーティーに行ってきました。
author : 吉澤生馬
2009.04.27 Monday
アモルフ代表で京都大学准教授の竹山聖先生のご自宅で開催される毎年恒例のバーベキューパーティーに行ってきました。

竹山聖先生設計の自邸「ブルー・スクリーン・ハウス」の外観
雑誌に多く紹介され知っている方もおられると思いますので、少し違った視点で撮影してみました。
色は省き、ダークにすればするほど、形が明解となり、どこまで精密にデザインされいるかが分かります。
この住宅はそういった精密さと大胆さとのちょうどいい関係が表現されています。

この日はあいにくの雨。
でも決行するのが、竹山流。
京都大学や武庫川女子大学の学生、竹山研究室の卒業生、建築家だけでなく、お医者さんやメディア関係の方まで多くの方が来られており、竹山先生の交友関係の広さに驚かされます。
多くの方々と楽しい時間を過ごすことができ、充実したひとときでした。

来年も再来年も続けてください!

吉澤生馬

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竹山聖
たけやまきよし
(1954― )

建築家。大阪府豊中市に生まれる。1977年(昭和52)京都大学工学部建築学科卒業。同年東京大学大学院入学、原広司研究室にて建築を学び、アフリカの集落調査に参加する。このころから、建築家の隈研吾(くまけんご)らとともに「グルッポ・スペッキオ」というコラム・グループをつくり、建築雑誌『SD』等に寄稿し、執筆活動を開始。1979年、東京大学大学院修士課程修了。同年博士課程に進み、友人たちと設計組織アモルフを結成、本格的な設計活動を開始する。1984年、東京大学大学院博士課程修了。
 活動初期にあたる1980年代の作品としては、古河(こが)の歯科医院+住宅(1983。『SD』レビュー賞受賞)、MARUYO代官坂(1984、神奈川県)などがある。1986年に湘南台文化センターのプロポーザル・コンペに二等入選し、注目を浴びる。また、軽井沢の別荘(1987)にて吉岡賞受賞。このころから規模の大きな建築を手がけるようになり、OXY乃木坂(1987、東京都。アンドレア・パッラディオ賞受賞)、D-HOTEL(1989、大阪府)、TERRAZZA(テラッツァ)(1991、東京都)、周東町パストラルホール(1994、山口県。現在は周東パストラルホール)といった作品を発表する。これらの作品はいずれも、コンクリート打ち放しによって幾何学的な構成の空間を明快に表現したものである。竹山はこれらの建築による試みを、「都市に楔(くさび)を打ち込む」行為と見立て、都市に対峙(たいじ)しうるだけの強度をもった、壁としての建築をつくりだしている。また、そうした過程で「不連続都市」「超領域」「想像力解放装置としての建築」といった、竹山独自のタームが次々と生み出されるようになる。
 1990年代には、ふたたび住宅の設計に集中的に取り組み、「天と地の対位法」という方法論によってそれまでの作品とは異なる境地を開拓する。ここでは建築が、「天に属する部分」と「地に属する部分」という明快な対比によって二つに分節され、それが鉄筋コンクリート造と鉄骨造、あるいは個室とリビング、といった複数の次元の差異に対応させられている。そうした方法論による代表作としては、竹山の自邸であるBlue-Screen House(1993)がある。
 1992年(平成4)より京都大学助教授、2015年(平成27)教授。京都に行ってからの竹山は、学生たちと古代都市遺跡を調査し、都市発生を探求しながら現代都市のあり方を分析・構想するようになる。1995年に阪神・淡路大震災が起きた際には、大学の研究室においていち早く神戸新首都計画を発表し(1995)、神戸の復興ビジョンを提示した。1996年、ミラノ・トリエンナーレ日本チームコミッショナー。1998年より、スペインのバレンシア大学、1999年よりパリのラ・ビレット建築大学で学生の指導にあたっている。また、竹山は文学や音楽、ファッション関係など、他分野の識者たちとも幅広く交流をもっており、その延長でファッション・デザイナー山本寛斎(1944― )の会社の本社ビル(1998、東京都)などを手がけている。
 近年は、都市化社会における単身者世帯の居住様態に関心をもち、ありうべき個人の住まいに関するビジョンを、さまざまな形で探求している。[南 泰裕]
『「自由への壁」(『SD』1977年12月号「国内建築ノート」所収・鹿島出版会) ▽『竹山聖 Kiyoshi Sey Takeyama Architect』(1990・六耀社) ▽竹山聖著「無為という虚構」(『新建築』1991年4月号所収・新建築社) ▽竹山聖著『独身者の住まい』(2002・広済堂出版) ▽竹山聖著「空間の欲望/物質とイマジネーション」(小石新八監修『スペースデザイン論』所収・2003・武蔵野美術大学出版局) ▽南泰裕著「測り得ない距離の形象化に挑む軽やかにして強固な意志」(『建築思潮』1997年05号所収・学芸出版社)』

https://www.tozai-as.or.jp/mytech/89/89_takeyama01.html
私の建築手法

はじめに
僕は大阪の豊中というところで生まれまして、豊中二中から北の高校を出て京都大学にいくという、まあよくあるコースでそのまま18の時まで大阪にいたわけです。それから4年間京都にいきました、ちょうどその頃、今から考えると信じられへんぐらいに景気が悪く、石油ショックの後で就職難でした。京都大学で僕らは90人の定員やったんですけれども、90人の中でたしか就職ができたのが18人くらい。45人が一応大学院の定員で留年している人がいましたから40人くらいは大学院に逃げたかと思いますが、後はほとんど留年しまして、大手5社はおろか、ほとんどまともなところは採用ゼロでした。1954年生まれなんですが、隈研吾、小林克弘、團紀彦、早稲田大学出身の古谷誠章君とかが同じくらいの世代にいて、大江匡君なんてのが北野の同級生でした。僕らの世代がかたまってぼつぼつ出てきたのは、何も志が高いとか能力があるとかいうことよりも、就職でけへんかったんでそのままひとりでずるずるやってるところがあるんと違うかなという感じがしています。大学出るとき就職もないし、大学院にいこうかなと思いまして、たまたま縁があって東大にいくことになり、東京に行ったのが1977年。ですから、1976年の秋に東京へいこうか、京都に残ろうか思い悩んでたんやなあと、さっきちょっと御堂筋を歩きながら思ってました。

1976年というと13年前なんですね。13年もたってしもうたんかなあという感じがすごくあります。 最近13年というのに、また意味があるんやないかなあと、僕らの世代でいうてて(『建築文化』の隈君との座談会)、それが大方の他の世代の顰蹙をかっているんです。54年の前が1941年で、この1941年生まれというのが物凄いきら星のごとく建築家を輩出した年代で、安藤忠雄さんを初めとして伊東豊雄さんとか長谷川逸子さんとか毛綱殻曠さん、六角鬼丈さんとか早川邦彦さんとか。ともかく図らずらっと並べるとだいたいが1941年生まれなんです。僕が1967年に京都にいてようか東京にいこうかと思っている頃に彼らは僕とちょうど同じ都市やったんやなあと思いました。1941年のさらに13年前というと1928年になります。1928年は槙文彦さんとか林昌二さんとか、菊竹清訓さんとか岡田信一さんとか。結構調べるとようけいいてる年代っていることにさっきふっと思い立って、ああそうか、僕らがすごい感心を持ってた安藤さんとか伊東さんとかも今の僕と同じぐらいの年やったんかと思うと、まあ意外と若造やったんやなあと思います。今、ちょうど景気がようなって来て、仕事もようけあって、13年前とは今昔の感がありますが、いくつか大きなプロジェクトに関わる機会にも恵まれ始めまして、そういうときにいろいろかんがえてきたことをまとめる機械を展覧会ですとかこういう講演会で持てることを非常に幸運に思っています。

スライドをみていただきながら、いろいろ話を聞いていただきたいと思います。

展覧会「不連続都市」でのいくつかの試み
ギャラリー・間 展示会場
ギャラリー・間 展示会場
ギャラリー・間 展示会場
これは東京の乃木坂にありますギャラリー・間というところで、9月の末から1ヶ月展覧会をやらせていただきました。その展覧会の構成です。まず今日のテーマの「不連続都市」ということからお話ししたいと思います。不連続とは簡単にいいますとわれわれが住んでいる今の社会の僕なりの認識で、いろいろな技術とか。通信手段とかそういったものがものすごく進みまして、僕らは今までにないような状態で生きていると思うのです。

今では僕らはあたりまえに思っているのですが、たとえば高速道路を走っている感覚みたいなものですね。これは古代ギリシャ人とか、アウトバーンをつくったヒトラーとかもこんなに日常的には考えられなかったような感覚ではないか。つまり車はある意味では僕らの足の延長ですけれども、スピードひとつとっても歩くスピード、新幹線のスピード、飛行機のスピード、などさまざまなスピードを体験できるし、それらのスピードが滑らかに繋がっているのではないということをあたりまえに認めるようになっている。テレビのように世の中にはチャンネルがいっぱいあって、そのどれかを選ぶ。その選んだチャンネルにはひとつのルールがある。ちょうどテレビのように、いくつもの世界が共存しているのが現在の社会だという認識があたりまえに小さいときからあるような時代に僕は育ってきましたし、僕以降の人たちには当然そういう感覚があると思います。それまではある完結した全体像を求めれば与えられた、努力して万巻の書を読めば与えられるという世界であったと思われます。つまり共同体が信頼できる形であったと思いますが、現在はそういう共同体がすべて引き裂かれて地縁、血縁、その他さまざまなものが崩壊して、家族というものも最後のより所になるかどうかというような瀬戸際です。人間が個々に引き裂かれた状態になっている。しかも個人の肉体の能力というのは古代からそれほど変わらなくて、たかだか100メートル走るのに10秒を切った、コンマ何秒をようやく薬に頼って縮めているという状態ですが、頭の中、意識のスピードというのは猛烈です。それは結局テクノロジーの進歩によって、通信手段、メディア、コンピュータちったものがそのまま頭脳の延長になる。結局頭脳の延長というものによって得られる感覚がすごいわけです。

車の話ですが、F1なんかコックピットの映像がテレビで映し出されてなるほどと思うけれどそれは高速道路で体験するスピード感の延長にあるわけで、そういったものを日常的に体験できるわれわれの頭というのは、おそらく昔の人の頭の中とは違っている。昔の人は歩くスピードで頭の中を動かせばいいわけで、考えられる世界というのは歩くスピードと動く手と、それから自分の頭で構想する宇宙論というのが連続した体験の中にあったんだと考えていいと思います。それに比べてわれわれはそれぞれ手には手の論理があって、足には足の論理があって、頭には頭の論理があるし、他の存在との関係においてはまた違う論理がある。

それからスケールにおいても、電子顕微鏡や測定機器の進歩とか望遠鏡だけじゃなくてボイジャーが探索するとか、そういう世界にあっては知識としてはものすごいさまざまな世界観を同時に頭の中に共存させることができるかというか、させざるを得ないわけで、顕微鏡あるいはそれよりもっと細かい量子力学の世界を見て、結局物質というのは粒子と波の双方の表情をもつとか、さらに細かくいくと存在そのものが明滅するし、質量とエネルギーが相互に転換するだけの存在かも知れない。ところがわれわれの日常的な世界ではそんなことを考える必要はなくて、それはそれなりのスケールをもっている。それから宇宙ということに思いを馳せれば、この大宇宙に比べればなんかすごくちっぽけな存在やなあと思うことは尊いことだけれど、ちっぽけな存在やということで全員皆殺しにしたらいいかというとそういうことはないわけで、それぞれのスケールにそれぞれの論理があるということは分かってきているし、その国にはその国の論理があるわけやし、天安門で虐殺されたというてもどちらの方でどういう論理があってどういうふうな状態なのかというのは、完全に全貌が明らかにはされてないわけです。

ただ分からないなりにさまざまな情報が断片化されて与えられて、その情報を受け取るということがわれわれの日常になっていて、これはそんなんシャットすればええやんかということは簡単ですけれども、人間は好奇心の動物ですし、知りたいということは本能ですから知ってしまうと後戻りがでけへんわけです。断片的な情報がどんどん頭の中に詰め込まれるし、しかもそれをそれぞれのスケールなりにひとつの体系化ができるけれども、ニュートン力学が小さなスケールにいくと量子力学にとってかわられるとか、そういう感じで全然違った世界であって、それはそれで仕方がないというかさまざまなスケールがさまざまな論理をもっていることを共に認めて、その中でどういう関係がありうるかということを探らなければいかんという認識の根本を不連続という言葉で現していまして、その不連続ということをどのように展覧会で現すかというのを試みたのがこの展覧会です。

このゾーンが一万分の一とか五千分の一でつくりました都市モデルです。これが百分の一でつくりました建築モデル、レリーフモデルです。このゾーンが基本的に50分の1という比較的大きなスケールでつくりました断片モデル。「未完結なオブジェ」と呼んでいます。そういったものが共存して、それぞれが相互に関係をもっているような展示を試みております。

これは展覧会の一部です、京都のシムスという和紙をデザインしてすいてくれるところですが、そこの掘木さんという方といっしょにつくった和紙の壁面です。2.1×2.7メートルありまして、後ろから光をあてるとこういう色になる。後ろの光を消すとほとんど真っ白になるという面白い和紙です。

ちなみにこの「不連続都市」で“竹山聖と仲間達”といいました仲間というのはアモルフの仲間も含むのですが、だいたい建築家なんていろいろな仲間と仕事をせんと建築なんかでけへんわけで、展示会もみなでわいわいやったらええんと違うんかなというのがありまして、この掘木さんとかコンセプトデザイナーの青木さんとか、いろんな人と共同しているという意味で仲間達というふうにいわせてもらいました。これもそういう意識にもとづいて共同制作しまして、テーマを現す「不連続都市」とタイトルをつけた和紙の壁画みたいなものです。

大阪港にシンボルをつくる
大阪港・堺のプロジェクト
大阪港・堺のプロジェクト
これがポスターにもなりましたが、実は大阪港の堺のプロジェクトです。約470ヘクタールほどの敷地に何を計画すればいいかというところから計画をするプロジェクトでして、このコンセプトプランナーが青木さんとおっしゃる方ですごい面白い人で、その人と組んでいくつかコンセプトを出してプロジェクトをまとめています。このときに不連続という言葉が出てきた。その不連続の前にあるのが不均質という言葉で、結局世界の近代都市計画によってつくられてきた都市が、ある意味では不毛であったとしたなら、それは物事をすべて均質なものとして捉えているからじゃないかというふうに考えたわけです。ここの場所は海に接している。これがすごく面白いわけですね。僕は都市が面白くなるためには、これからは海沿い、川沿い、緑沿いと、ここをうまいことつかうことに尽きると思っています。今まで世界で18世紀を代表してロンドン、19世紀を代表してパリ、20世紀を代表してニューヨークとしますと、それぞれがものすごく明確な論理に導かれた均質な都市だったと思うんです。それは人間の手による理性、人工アーティフィッシャルということについてはものすごい信頼をおいたもので、人間の手によってつくられた都市の代表がロンドン、パリ、ニューヨークのようなものであったとするならば、東京というのはほとんど都市と呼べるようなものじゃなくて、それに比べると僕は大阪のほうがよっぽど都市空間というものがつくられていると思っています。ただ東京が偉大なる田舎であるだけに面白い。ウォーターフロントが非常に多くて川が何本も流れています。これは大阪も同じですが大阪の場合は川をつぶしてますから難しいところがありますけれど、東京は水辺がそのままでこれから開発を待っている場合が多い。それから緑がけっこう豊富です。なにしろど真中に巨大な手付かずの緑がありますし、その他にもいっぱい緑があって、その海沿い、川沿い、緑沿いに何かしら異界、計画論的なものが取り落としていたような人間がもっている非合理性とか矛盾をちゃんとすくい取ってやれるような都市空間というもの、それが僕は創造力を喚起する場所だと思っています。巧く計画されていくと、東京なんかはひょっとすると不均質というものをベースにした初めての都市像ができるかも知れません。

初めてといったのは近代の話で、中世においては、たとえばカフカの城は、チェコのプラハをベースにしていますが、東ヨーロッパのプラハとかブダペストは高い町と低い町、聖なる場所と俗なる場所というのがすごく明確に分かれて、それが不均質に独自の中心をもっていた都市です。それをもっと現代的に、単なる二元論ではなくもっとプルーラルに不均質な場所が持っている。人間の単なる頭脳を超えたような力を引っ張り出せるような仕組みを、しかしながら人間の頭脳で考えられへんかなということで、このプロジェクトは始まりまして、見てもらうとわかるようにこれは丘です。 だいたい150メートルくらいの高さがありまして、150メートルというのはパリのモンマルトルの丘が130メートルですので、それよりちょっと高いぐらい。この丘をつくろうというのは、大阪のシンボルが希薄やな、天保山だったらちょっとしょぼいかな、いろいろ考えるところがありました。東京にもあまりないのですが、ニューヨークには自由の女神がありますし、リオ・デ・ジャネイロには丘の上に手を広げた神様がいてますし、サンフランシスコにはゴールデンゲートブリッジがありますが、大阪港にはなにがあるか、ないのなるシンボルをつくろう。そのためにはせっかく不均質で面白くなる可能性のある水場があって、さらに面白くするためには、埋立地がつまらないのは地盤が弱いということもありますが、地形に高い低いがないことだと思いまして丘をつくろうしました。丘の上に何かこう、これはひとつの提案ですから極端なことをやっていますが、たとえばアクロポリスみたいなのをつくってやろうとアクロポリスをつくっているわけです。丘の上は聖なる場所で、こういう聖なる場所があって下の町が初めて活気づく。この下の町にはいくつかのプログラムを付与していまして、映画スタジオの案とか、インターナショナル・レジデンシャルゾーン、関西新空港が24時間態勢でつくられるのをうけて世界中の人びとが集まってくるだろうと、その人のために高度にセキュリティを保証しサービス、コンビニエンスを保証した町をつくってみようというのもあります。あるいはホテルゾーンをつくってみよう。それからここには芸術大学をつくろうとか。そういういくつかのプログラムを与えてそこに形式を考える。この場合は丘をつくること、それからここに列柱状になっていますが壁をつくること、それから新都市交通システムとか。ちょっと見えにくいですがロープウェイが走っている。こういうふうにオブスタクル、障壁になるようなもの、邪魔になるようなもの。邪魔っけなものをつくることで初めて人間というのは自由を認識できるんじゃないかというような仮説をたてまして、邪魔っけなものを手掛かりに町の基本構造をつくる。邪魔っけなものとそこに生まれるさまざまなアクティビティとの関わりを見いだすことはどういうことだろうかと考えていました。

今ギャラリー・間ではベルナール・チュミの展覧会が開かれていますが、チュミと食事をする機会がありまして話をしていますと、チュミはプログラミングということをいっています。簡単にいうとクロスプログラミングというのはひとつの容器があってその中身を別の中身に入れ替えることで、トランスプログラミングというのは、ふたつのワンセットになった中身と外身を無作為にぶつけあってみようということで、ディスプログラミングというのはぶつけあったものをさらに中身を入れ替えたり、別のものを入れたりしてやろうということなんですが、そのプログラミングという言葉の向こうに、必ずチュミはコンフィギュレーションという言葉を使っている。これは僕がいつも考えている形式ということに非常に近いんじゃないかなと思って、その話をしていたのですが、プログラムを詰めることは建築を考える上で当然のことで、コンペはプログラムがいかに見事に解けるかということが勝負でして、ただ建築家の役割というのはそういうふうに解いたプログラムにいかなるコンフィギュレーションを与えるかに尽きると思っています。その話に答えて、チュミもそうだといっていたのですが、このときはそのコンフィギュレーションとしてプログラムをもっと投げやりに扱いました。結局プログラムが何も決まってないわけですからコンフィギュレーションだけを与えて、そこのアクティビティを期待したのです。ただそのアクティビティを導き出すくらいの強いコンフィギュレーションを与えてやろうと思って、高い丘や壁、それらを横断する交通線とかそういったものを考えていったプロジェクトです。

不連続都市ゲーム
不連続都市ゲーム
不連続都市ゲーム
プログラムごとにいくつかピースをつくりまして、たとえばこのピースとこれを入れ替えるとまた新しいプログラムができて新しいコンフィギュレーションになるとか、そういうふうなプログラムとコンフィギュレーションの関わりをいろいろスタディしているものです。典型的なプログラムとすると、たとえばここ21世紀博物館、ここにユニバーサルシティ、ここに映画スタジオ、ここにホテルゾーンとかリゾートゾーンとか。それから丘の上の聖なる場所。人間は人間を越える場所をある意味では求めているんだと思うし、不均質ということをもう少しいうなら、特に日本人の場合はどこに住んできたかといえば、山から川がでてくる扇状地とか海沿いの入り江とか、山の中でも谷間の部分とか特異点を選んで生活しています。僕は大学院のとき原広司先生の研究室にいました。そのとき海外集落調査というのがありまして、僕はその5回目のアフリカの集落は基本的には平坦な場所に身を竦めるようにしてひとつづの宇宙をつくるというつくり方をしていましたけれども、その前の資料を見るとやはり急峻な岸のエッジに集落がつくられているとか、ともかく地形や自然の境界線に沿って不均質な場所を選んで住んでいる。そこに水が湧くからとか、風が除けられるとかそういう説明はいくつもあるのですが、そういうこともすべて含めてある地形的な特異点というのは人間に対して特別な感覚を抱かせるものがあるに違いないし、それを感じるころができるはずです。そういう意味で不均質な場所に注目している。この計画はそういうことを考えながら均質な埋立地にどのように不均質なコンフィギュレーションをつくるかということを考えたわけです。

これが一万分の一でつくったもので、それからこの展覧会のために5千分の1で東京を今度は切ってみまして、90センチ×3.6メートルというスチールのパネルをつくりそのパネルにぺたぺたとマグネットシートで張り込むような模型をつくりました。これを「不連続都市ゲーム」と名づけたのは、このプロジェクトがある意味ではシリアスなんですが、ある意味では暫定的なゲームだという感覚があったもので、ぺたぺたと貼り込んで後は置換可能ということをはっきり出すようにつくってみようとしたことからです。やはり建築の場合はy=f(x)のfの部分が重要でxが入れ替わってもfをきっちりとつくってやれば、ビジョンをyとすれば適切なyが出てくるというふうに考えまして、僕はいつもfをどうつくるかということを考えているのですが、そのfとしてたとえば、これは墨田川沿いに大きな壁状の梯子状の構造物をつくって、その中に異界が発生するというふうに想定しました。

この梯子状のものだけは固定してあります。それに付着しているものは全部マグネットシートで付いています。

パネルの全体像ですが、ここらに隅田川が流れていましてこういうラインが首都高とか鉄道のラインです。皇居があります。ここが山手と下町の境界線で、そこに大きな壁をつくって、ここも固定して、一応スポーツ施設のような何かを考えていますけれども、必ずしもそういったプログラムを具体的に提案しようという目論見ではないんです。それぞれ国会議事堂とか、丸ノ内とか大手町とか銀座とか、場所ごとに考えをもって造形はしているのですが、都市の再開発計画という意味ではなく、東京という町を今まで述べましたようなコンセプト、認識で切り取って極端な形を示してみようという問題意識にもとづいてつくられた模型です。

荒川に橋がかかっているのですが、ブリッジというのがやはり異界を構築する非常に重要な要素で、橋というのは昔からアジール、これはドイツ語ですが公権力の及ばない場所。日本でも河原乞食とか橋の下で生まれたんやろとかいろいろありますが、橋はふたつの領域を繋ぎながら区切る特別な場所です。橋の上では宙吊りになった状況が生まれるわけで、橋が落ちたら元も子もありません。そういう橋のもっているようなパワーや潜在力をこの業界につくり上げたいと。それから壁をつくる。それから列柱と大きな階段と塔、そういったものが特別の思いを込めて使われています。

関係の触手
ディテールを見るとこういう感じです。ルールとしてはすべてのものがマグネットシートで付けられると決めましたので、ベースがあってボディがあって、それに「関係の触手」と呼ぶオブリガードを付けるということを決めまして、多くの人が独自の解釈でさまざまに読みとっていく。結局都市はひとりの人間がすべてを決定するわけにはいかないのですから。そういうことに関するうさん臭さにはとっくに引導を渡されたと思うのです。ブラジリアの破綻とか、素晴らしいけれども恐ろしい丹下健三の1960年の東京大計画ですとか、遡ればヒトラーのベルリンの計画。ヒトラーのファシズムという政治形態で明らかなように、人間というのは共同体を心の底ではある意味で求めていて、それが引き裂かれてきたのが近代の歴史ですけれども、それは逆説をファシズムが成し遂げたわけです。心を合わせたいと思っているのは確かなわけですね。それは親しい友達、あるいは恋人、あるいは家族の間で心を合わせる、もう少し大きなサークルで心を合わせる、会社で心を合わせる。そういったことはいろいろ出てくるわけですが、それが国家単位で心を合わせることの恐ろしさ、そういうものが1930年代40年代ですべて破綻があって、心を単純に目をつぶって合わせることの不気味さを誰もがわかってしまった。それらが禁じられたところに民主主義というものの根底があるがずで、現代は基本的な人間の相互の欲求とそれらの調整というようなアンビバレントな調整機能が政治には求められているわけですけれども、東京や大阪は土地の細分化が進んで隣は何をする人ぞで、隣が何やってもかまへんという暗黙の前提で自分の敷地で建物をつくらなあかんわけですし、そういったときにどんなふうな関係のとり方をするべきかということを考えなあかんわけです。今関係の触手ということをいいましたが、関係の触手というような考え方は僕が最近いっております「イオンの建築」ということと繋がっていまして、これは『ポートフォリオ』という雑誌に先日ちょっと書きましたが、都市の不連続点を構想するときにそこにつくられる建物は、ある意味では他のものとの関係を熱望するような建物でありたいと。他社に敏感な建築をつくりたいと思っていまして、イオンは分子が電子をひとつふたつよけいにもったり少なくもったりしている状態ですので、不安定なわけですね。ただその不安定な状態がたとえば水のようなものをつくる。水はH2OですけれどもふたつのH2とひとつのO2がいっしょになっただけでは水にはならずに、そこにはH2がひとつずつH+というふうにイオン化しないといけません。O2はO2-というふうにイオン化をしてイオンになった状態で水になって融合している。建築の場合も隣に何が建つか分からないから俺はずっとH2のままでいるとO2のままでいるということでは先がクラい。

今の日本の状態を考えるとある意味では新しい町並みを考えるのにちょうどいいチャンスやと思いますが、そういうときにレギュレーションもなく、共有する文化的な価値観もあまりないですし、かつてヨーロッパの都市がつくられてきたような連続的なビジョンもありません。連続的というのはたとえばバロック都市のように遠近法に導かれた都市計画の考え方ですが、ヨーロッパはやはりずっと向こうまで連続したものがつづいているというようなふうけいがもともと潜在的に心象風景にあるわけでルネッサンスで発見されたということだと思いますけれど、日本の場合はやはり芝居の書割みたいに近景、中景、遠景というふうに不連続に繋がっていて、それを頭の中で組み立てる。それから茶室の道行でもそうですが、ずっと路地をいって中潜りとか待合とかそれぞれのスペースがまったく違った論理で構成されていて、最後に無謀とも思える小さな入り口で、躙口ですが、滅茶苦茶狭い空間に入って、そこですべての面がファッションメトリーな、天上なんか1.9メートルくらいしかないようなところでお茶飲んで話をする。それでものすごい宇宙のことから下世話なことまで話をするというような美学をつくった国ですから、それは現在の不連続都市を凝集しているわけですが、そういう空間感覚を最初からもっていると思っているんです。なおそれが現代の日本の都市を特徴づけていると思っているのですが、そういうことをより明確に出してやってみようかな。そのときに基本的なマナーとして、ひとつひとつの建築がイオンのような状態になって他社との関係を考えないといけないのじゃないかな、それは完結したベルサイユみたいなものをつくるんじゃなくて未完結なものをつくる。未完結なもののよさというのは完成した姿を頭の中で想像できる。完成像を頭の中でつくり上げるということは、禅の美学でもあるらしく鈴木大拙の本に書いてあったのを読んだ記憶がありますが、いずれにせよそういう価値観をわれわれは昔からもっていたし、今の都市はそのようにつくられつつありますし、その中でひとつひとつの狭い敷地にそれぞれが完結したものをつくって、隣と背の高さを競い合ったりしていても何となく不細工やなと思っていますので、その中に共有する部分と違った部分を明確に言葉と形にしていってやりたいなという感じが僕にはあるわけです。OXY乃木坂です。

個々のものをとるとこういう感じになります。

ベースとボディと関係の触手です。ベースは原則として正方形あるいは円、あるいは三角形というゲシュタルトの明解な形で、ボディは原則としてキューブとかシリンダーとか三角柱とかそういったもので、それに関係の触手をくっつけていく。関係の触手がそれぞれの場所を結んでいく機能をもっていて通信手段、交通手段とも関わってくるというふうに考えています。

未完結なオブジェ
そういうものが向こうに見えながら近くにはものすごいディテールのあるものがありまして、これが部分模型、「未完結なオブジェ」と呼んでいるものですが、これは今のプロジェクトとして進んでいるものの部分を取り出して模型にしているものです。

全体といものがもう信じられない時代だというふうにいいましたが、部分、人間が知覚できる範囲、局所に関しては僕は責任がとれると思っています。そこに空間をつくり上げることだ。それらが連続していくそのシンタックスについてはさまざまな要因でいろいろに決まってくるものじゃないか。そこに何かこちらである方法にもとづいてインパクトが与えられればせめてもの幸いで、ほとんどの場合そういうことがあり得ないと思っていますので、断片に思いを込めて輝きを見いだしていくというのが、方法としては有効じゃないかと思います。これなんかがたとえばOXYとかD-HOTELを最初に構想したときにつくったコンセプトモデルです。

これは上から見ると正方形と円とが貫入しているんですけれども、正方形というのは完成した形、無限に増殖可能で無限に分割可能である。

未完結なオブジェ
未完結なオブジェ
キラー通り沿いの建物
キラー通り沿いの建物
円は完結した形でこれ以上何も付け加えられなければ、そのままの形では分割することも不可能である。そのような円とか正方形が交差する部分に生まれる形を、ある思いを込めて未完結なオブジェと呼んで、これを建築化したのがOXYとかD-HOTELです。ただその中に完結を望むキューブがちょっと傾いている。完結を最初から拒否するということではなくて、やはり完結したもの、全体像、心を合わせたいということに対する憧れはみんながあるわけで、その意味ではみんながファシストになる可能性は高いのですけれども、それと同時にそれは禁じられていて現在のさまざまな状態の中で断片化した人生を余儀なくされている。これはだから方法論だけではなくて、われわれの生き方自体が昔のようにひとりが特別な全体をもったような生き方をするということはほとんど許されないような状態であるという認識にもとづいた話でして、そういったところがおそらく建築にも現われざるを得ない。だからそれを表現しようというよりも、そういう状態を考え尽くしていくとこういう形になったということの方が正しいかもしれないですが。完結した形である円の一部を使うことによって完結したものへの憧れと断念を共に現わそうというようなことがこのモデルをつくったときに考えていたことです。

これはプロジェクトの一次案、二次案、それからもっとコンセプチュアルなものです。これもあるプロジェクトの一次案です。題してマンハッタン・トランスプランテーション。マンハッタンはモダンのスカイスクレーパーもあればポストモダンのスカイスクレーパーもあればアール・デコのもあり、それらが共存する世界である。これは西新宿のディベロッパーの本社ビルとして計画されたものですが、そこの敷地にプログラムがいくつか複合した要素があったものですから、それぞれに異なった形態を与えていって、ヘテロジニアスな世界、不連続なものが連続している世界をここに現わしてみたい。これは先週実施設計がすべて終わりましたキラー通り沿いの建物のコンセプトモデルです。

これも未完結なものが不連続的に連続しているというようなことを形にしてみたもので、これも実現の可能性がないとはいえないと思うのですが甚だ希薄な、ある地方中心都市の駅の再開発プロジェクトです。実際にここがホテルであるとか映画館であるとかのプログラムはちゃんと抑えてあるのですが、駅を公園あるいは遊園地にしてしまおうということで、観覧車やケーブルカーを取り込んで取りあえずアイデアをまとめたものです。

出合いの場所をつくる
四本の柱と壁とアンフィシアター
四本の柱と壁とアンフィシアター
これがさっきのキラー通り沿いの建物の屋上部分の模型です。最近ほとんどの建物のてっぺんにアンフィシアターを乗せるということをやってまして、大きな階段の変形なんですが、ひとびとが集まる場所、出会いの場所をつくることが僕は建築のひとつの役割だと思っているわけです。出会いの場所というのは共同体ということをさっきいいましたが、大なり小なり建築は共同体の表現であらざるを得なくて、つまりものすごい強大な権力をもつ王様がいたときは奴隷を使ってでもピラミッドだとかいろんなものができるわけです。偉大な建築には強大な権力が必要だというのが歴史のジレンマで、だからファシズム建築は魅力的なのですが、歴史の中で偉大な建築といわれているもののほとんどが人間の存在を越えているものに対して捧げられたものです。ピラミッドは王様のお墓ですし、パルテノンはギリシャの神々に捧げられているものですし、カセドラルは聖母マリアに捧げられているものです。がそこに成立した建築の形式は、カトリックではない人ひとが訪れても感動するわけですし、パルテノンが素晴らしいと思うのはギリシャの神々の徳が素晴らしいからではなしですし、ピラミッドに圧倒的なパワーを感じるのは王様が偉かったからではない。つまり王様のお墓だから感動するわけではないし、神様の神殿だから、あるいは神様を祭っているから感動するわけでもなくて、空間の形態そのものにわれわれは感動して偉大な建築だというわけですね。

それは先ほどのプログラムとコンフィギュレーションの話と関わるのですが、プログラムを詰めて建築はできますけれど、プログラムを捨てたときにその真価が初めて分かるのだといっていいのではないかと思います。ただ、その建築を実現するときは、やっぱりものすごい強大な権力とお金と労力がかかりますから、それをまとめるためには人びとが心をひとつにせんとしゃあないわけですね。心をひとつにする契機というのが、ある種の共同体のモニュメントであるという意識だと思います。その共同体がいろんな形であり得たのですが、古代ギリシャでは一応奴隷制があったということではあるいにせよ、市民が自由に政治を語るとか演劇を楽しむというちょっと理想化され過ぎのところはありますが、古典復興と呼ばれたようにヨーロッパの中世を経てきた目からするとルネッサンスでは非常に高度な理想郷に見えたわけで、そういったときに築き上げられたコンフィギュレーション、建築の形式がこのアンコンフィギュレーションであったと思います。

ギリシャ人はクリミア半島とか中近東に植民都市をつくりましたが、そのときは必ず劇場と神殿をつくった。そういうギリシャ人のつくりあげた人びとの出会う場としてアンフィシアターを捉えれば現在ここで演劇が行なわれるか否かは別として、ある出会いの場のシンボルたり得るのではないかと踏んでいまして、最近は多くの場所に有効であると思ったときにアンフィシアターをつくるようにしています。

部分という意味ではこれもいかにも部分で、ふたつとも住宅なんですが、住宅でプログラムが満たされるべきところはすべてとっぱらってあります。これが熱海につくる別荘でが、こちらに道路があり、道路からブリッジを渡って建物の屋上に辿り着く。ここが崖になっていまして家は下にあります。屋上から下に入って生活する、普通のプログラムが成立する場所があるのですが、ここの計画のコンセプトは他社と出会う場所、ここであると、建物の屋上だけつくってあります。ブリッジと列柱と大きな階段、大きな壁を使ってアプローチをつくりました。

おそらく将来ここの住み手の家族構成が変わったりして、この下の部分はつくり替えられていくことも可能だと思っているのですが、この部分は残るのではないかと思います。というのは機能がないからです。

こちらは京都に計画している住宅ですが、道路がありまして階段を登って入っていく、」湿地が湿っぽいとかの鴨川沿いのコンテクストを読み込んで建物の2階部分にメインのフロアーをつくればいいと思いました。この壁がパブリックとプライベートを、この壁が外と内とを分けると考えています。これをコンクリートでつくり、うわものの生活空間は木造でつくっていく。そのように住み手の要求に応える部分はフレキシブルに考え、それを支える部分をコンファームとしていくということを計画しています。おそらくこれがあとあとまで人びとの記憶に残るとしたら、こういう形で残るのではないかと僕は思っています。つまり廃虚になったときにどのように残るかを思っています。

これがキラープロジェクトのコンセプトモデルと部分模型です。これはメインエントランスを入ったところが吹抜けで、吹抜けといってもどちらも屋外でこれは機能のないところだけをつくっています。40メートルに及ぶ塔が3本建っていまして、それに25メートルぐらいの高さの壁がもたれかかっています。壁にぼこぼこ穴があいているのでここは風も雨も抜けていくわけで、その中をブリッジが1本渡っていく。ここからここまで三層はフィットネスクラブで最上階にオフィスがありまして、この地下にはレストランとか物販が入るという複合の商業施設です。その全体のメインエントランスとしてこういう場所を構想しています。

先ほどのマンハッタン・トランスプランテーションが変化してきて、これが屋上の部分で、これは1階のパブリックゾーンの部分ですが、エントランスとミーティングルームとかコンファレンスホールがある場所です。結局部分空間を取り出して、それらの連結でもって全体像が捉えられる建築のつくり方をしています。全体像でばしっとシャープに、この形というふうに出たときは、まあよく出てくるのですが、D-HOTELとかOXYはこの形でつくった例です。もう少し規模が大きくなるとそういうつくり方をすると、ただのでっかい彫刻みたいになってしまう感じがあるので、形としてはシンプルな方がいいと思っているんですが読み取りがなるべく複雑である方がいいです。そのために部分空間を取り出せれば部分空間で成立するような形を考えたいと思っています。

これがギャラリー・間の庭を借りてつくったインスタレーションで、4本の柱と壁とアンフィシアター。そのアンフィシアターを最初に大々的に使ってみたのが坂本龍馬記念館のコンペの応募案のときです。

超領域
SEAプロジェクト
SEAプロジェクト
これはギャラリー・間に出したモデルの写真です。これは強羅花壇、これがSEAプロジェクトといっています三浦半島に計画していますマリーナに付属するホテルとクラブハウスのプロジェクトです。これが120メートルの大列柱廊です。こういうコリドーの場所を超領域と名付けていますが、これはわかりやすくいうと機能がはっきりしなくて基本的にはただで入れる場所というようなことです。これはリゾートですから意図が伝わりにくい面があるのですが、僕は都市の場合はただで入れる場所が多ければ多いほど面白いと思ってまして、しかもそこがきれいに整頓された公開空地みたいなものではなくて、なんとなく拒否されそうになりながら入っていくと何かおもしろいものがあるというような格好が都市ではいいんじゃないかと。 D-HOTELでは1階にギャラリーをとっていますし、OXYでも1階は本来ギャラリーでしたが今は喫茶店になっていますが、1階をオープンにしたいと思っています。都市では土地が高いですからなかなかそれは難しいですが、リゾートでは特に規模が大きいとそれが都市的なスケールになってきて、非常にうまいこと解けていきます。こういった計画のときに考えていますのがただで入れるパブリックな場所をどのように造形するかということで、今までホテルだったら宴会場とか客室とか金を生む場所は一生懸命つくってあるけれど、後は気の利いた格好がついていればいいみたいな感じがあったと思います。僕はルイス・カーンが好きで彼のこういう言葉に出会ったときにすごいショックを受けました。「コリドーをギャラリーと読み替えたまえ、そこには光が訪れ風が渡る。エントランスをホールと読み替えたまえ。バジェット予算というのも真の意味での経済性と読み替えたまえ、それが建築家の仕事である」。結局たとえばコンペならコンペの応募要綱に沿って、それをそのままつくっていくと単に組み立てパズルがうまくできましたっていう感じがするんですが、普通のプロジェクトでもクライアントが要求した以外のことを提案したいといつも思っています。この強羅花壇においてもSEAプロジェクトにおいても勝負は何回もお客さんが来てくれることだ。そのためには何が必要かといえばやはり記憶に残るようなスペースをつくってやらないといかんのではないか。記憶に残るようなスペースということで提案したのがこの120メートルの大列柱廊であり100メートルのコリドーであるわけですけれども、ただこういったものを介して基本的にはやはり他社に敏感な建築を考えたいと思っています。たとえばこれは海がありまして、光が抜けていく風が抜けていく、視線が抜けていくということをどの場所にいても感じられます。

強羅花壇
強羅花壇
コンパクトにまとまっていてもどてらを着たような、気分的に風通しのよくない建築というのは短期的にはなかなか便利でも精神を萎縮させるんやないかなと。長い目でみたら創造力を抑圧するような予感がありまして、いろいろな目論見を込めながら演出をして他社に敏感な風通しのよいスペースをつくり出したいと思っています。基本的には旅館でもホテルでも部屋に入ったことでお金を払うわけですが、みんなが一番印象に残るのはやはりパブリックなゾーンであると考えていまして、このパブリックなゾーンにどういう光を与えるかが一番の勝負やないかなと。もっと悪意に充ちたいいかたをしますとレストラン、ラウンジ、バンケットルームもいろいろプログラムが変わってきますから、将来何になるかわからない、いろいろ不確定な要素があるわけで機能がある場所というのは基本的にはヤバイ、明日は何になるか分からないから機能のない場所もちゃんとつくっておこうということがあります。機能のある場所というのを領域とよんでいまして、領域を越えていく部分、領域と領域をつないで関係させる部分、関係の場所という意味で「超領域」とこういう場所を呼んでいます。空間として僕がこういう列柱や断片的な壁が好きなのは、たとえばパチンコ玉をジャラジャラと入れたとき、チンチンチンチン、タカタカタカタカ、ジャラン、とこういうふうな感じになるようなのが一番ええプランニングやと思っている。どこかでボトッと溜ると何か疑惑があるちゃうかなという感じがしてくるし、何か風通しが悪いんとちゃうかな。何か砂時計とかすうっと流れていくような空間というのが一番爽やかやろうなと思っていまして、それで列柱です。列柱は光とか風とかにさまざまに反応しますし、ブリッジとか階段とかいった関係させる要素をうまく使って風通しのいい建築をつくっていければいいなと思っています。

パブリックな場所の構想(1)
江ノ島プロジェクト
江ノ島プロジェクト
これが江ノ島プロジェクトと呼んでいるもので、片瀬海岸に計画しているやはりホテルです。この3つはお金を生む部分をとっぱらってただで入れる部分だけをレリーフモデルをつくっていくということをやっています。これを「パブリックな場所の構想」と呼んでいます。江ノ島のホテルにおいても120メートルの客室棟が中央に浮いていまして、2階、1階、地下1階というふうに階段を介して広場がつながり、この広場がに面してショップやフィットネスクラブが計画されています。ロビーとかバンケットルームとかホテルの人しか使われへん場所はここの下に全部埋もれています。

湘南台文化センターコンペ
湘南台文化センターコンペ
列柱や大階段やブリッジや塔といったものを関係の要素といい、それ自体は機能をもたないけれども何物かと何物かを関わらせるものであるとして、関係の場をつくっていこうと考えた一番最初の建物が、湘南台の文化センターのコンペの応募案だったと思います。ここでも大きな階段で地下に下りていって、子供文化センターに入る。こちらが市民センターでこれが市民ホール。市民という名がついているのでそれらに対して市民のひとつのシンボルであるアクロポリスのパルテノンのような形を与えるとか、水がずっと流れるのでここにローマの水道橋のようなものがあるとか。それからプラネタリウムがあって天への憧れを示すものでバベルの塔をつくるとか。子供会議室があるのでピラミッドパワーでいいアイデアが出るようにピラミッドをつくるとか、そういうことをいろいろ考えて形を決めていますが、先に形があったのではなくて途中で古典的な形がでてきたときからそれに理由付けをすることを考えながら計画していきました。

これは後ろですが、この計画でもやはりサーキュレーションというものに対する意識がすごく強くて、サーキュレーションをできるだけ露出して明解に動線を見せてやろうと。最上階にはやはりアンフィシアターがある。アンフィシアターというのは正式には円形劇場なんですが、一般には野外劇場はみんなアンフィシアターとアメリカではいっているので、ここには壇上の広場としてアンフィシアターをつくりました。この後コンペには必ず屋上にはアンフィシアターをつくるのが決まりになってきまして、その後、今は実作にもアンフィシアターをつくっています。

第二国立劇場コンペ
第二国立劇場コンペ
これが湘南台の後の第二国立劇場のコンペの応募案です。これでもプログラムに要求されていないもうひとつの劇場を屋上につくりまして、これが全体の構成の中心をなしています。このときは周囲が西新宿のとりとめのない町並みで隣にガスタンクがあったり小さなマンションがいっぱいあって、一般的な不連続な都市空間ですが、そこに何か非常に構築性の高いものをもっていきたい。ただ構築性の高いものが周囲のコンテクストに応じて微妙に秩序を逸脱していくというようなつくり方ができるとええんやないかなと思って、プログラムは大きなオペラハウスとミュージカルを中心とした中劇場と小劇場、それからバックスペースや研修施設なんですが、この敷地には猛烈に盛りだくさんで、大と中を上下に積むことによってパブリックゾーンを生み出すという考え方をとりました。

模型のことについていうならば、これは金属塗料というのを塗ってまして、鉛とかアルミ、ステンレス、スティールとかいろいろあるんです。それらを磨いていくのですごく手間がかかります。模型が今度はデザインを誘導するということもありまして、こういう真鍮の八角形の柱というのは、八角形の柱を鉛筆削りで先を尖らせて並べたらおもろいやろなというところからこのデザインが決まったようなところがあります。

愛知県民会館コンペ
愛知県民会館コンペ
これは愛知県民会館のコンペの応募案です。これも第二国立劇場以上に敷地に対してプログラムが過大で大ホールとコンサートホールと実験劇場と美術館と国際会議場というのを全部ひとつの建物に入れてしまうというえげつない建物ですが、これもできるだけパブリックゾーンをとりたいわけですね。ただそれを正直にやると全部ぼてーっと建ってしまうので、地下をうまいこと使うのと、後は建物全部を公園のようにしてしまおうと。建物を地形あるいは基礎と見たててその上に神殿をつくるというやり方は完全に手法の中に入っていましたから、確信犯で最初から大階段で上まで登る、そしててっぺんにアンフィシアターをつくる。見晴らし台をつくる、列柱で回りを囲むとかそういうことがあって、前のふたつのコンペに比べて非常に短期間でまとまりました。上下にやはりコンサートホールと大劇場を積層しています。

今まで見ていただいたコンペの三つの案は都立大学助教授の小林君と共同した計画で、共同の態勢に関しては基本的には非常に心を合わせてうまくやっているのですが、愛知のときはたとえば、だいたい僕がばあっと描いて彼とディスカッションをするという感じがありまして、ここの案に関しても二つ描きまして、こういうクロスペディメントの案と、それから大きなドーム状のものをカットした案。ドーム状のものをカットした案のほうが何となく今っぽいかなという感じが僕はあったんですが、小林君に見せたら迷わずこちらをとりまして、それではこれでいきましょうということですね。これはちょうど名古屋城と比例が揃っているという結果的な読み取りもできるようになっています。

宮之坂駅コンペ
宮之坂駅コンペ
これは小林君がアモルフから都立大学に移って、個人個人でコンペに応募するようになった最初のコンペで、世田谷区の宮之坂という駅のコンペの応募案です。これは駅の前の敷地に公民館みたいなものをつくるというプロジェクトで、公民館自体はバレーボールコートがあるとかミーティングルームがあるとか、そういった一般的なプログラムで小さい建物ですが、何となくそういうのってそれはそれでいいのですが、あまり発見的やないプログラムやなあっていう感じがありまして、鉄道の駅を全部つくり替えて2階にギャラリーをつくってしまう。世田谷線というのはチンチン電車で路面電車みたいなやつでして、そこの各駅に全部これをつくりましょうと提案しました。で、ここにそれらの全部の統括の事務所をつくって、メインのギャラリーをつくって、事務所をつくるというプログラムにない提案をしまして、都市に丘をつくる、大きな階段と列柱とブリッジと塔というものを使ってやりました。このときは小林君はまったく違った案を出したのですが、ふたりとも佳作に入りませんでした。これは要綱違反かも知れませんが今でもわりといいと思っていまして、チンチン電車の駅の改札口がちゃんとあるような駅ではないわけですから、駅自体がパブリックな場所になる可能性が非常に高いわけですよね。そういうところ、つまり各駅に市民のギャラリーをつくっていく。ここが世田谷という町の典型的な風景ですが、昔の川や用水を暗渠にしましてその上に緑道がつくられています。この緑道にメインのタワーは500メートルに1本づつぐらい。それぞれ水の塔とか風の塔とか光の塔とか。爽やかな名前を付けまして、夜にはイルミネーションが点々とついて緑のネットワークを示す。芸術のネットワークと緑のネットワークをつくっていって「文化と緑の世田谷」というふうにコピーライティングもしてみたのですが、字が小さくて読めなかったのかも知れなくて、橋にも棒にもかかりませんでした。えらいこのときは「やっぱ審査員があほやしゃあないな」と。

横浜ファッションメーカー
横浜ファッションメーカー
これはもう少し前に横浜に計画してました建物で、ファッションメーカーを想定してディベロッパーと組んで売り込みにいきました。これはファッションメーカーができるようなスタジオとブティックが入るようなプランニングです。ファッションメーカーってだいたい飲食店も手掛けてますからこちらには飲食店が入るように。 ちょうどフランス山公園の真向かいで元町の出口のところなので場所もいいです。こういうふうにやるといいですよと提案しました。 列柱と大きな壁と大階段とブリッジが無意識のうちに出ていますけれども、ここにサーキュレーションを全部とっていて、野外の場合はここがファッションショーの舞台になります。

これもその頃につくっています。この頃大きな階段に目覚めまして、ともかく階段ばかりつくっていました。強羅花壇と似ていますが大きな壁をつくって崖を塞ぎ止めています。こちらが横浜の山手の崖っぷちでこちらに横浜港が開けています。屋上が段状の広場になっていまして、横浜の町や港を一望の下に眺められるという計画です。これも残念ながら建ちませんでした。

これは横浜の港北ニュータウンです。コンピュータ会社の研究所として計画した建物で、階段がぐるっとウロボロスしているという計画です。この格好で基本設計ができたのですが、オーナーがこれを気に入り過ぎて、ここに本社を移したいということになり、結果的にこれはおじゃんになりました。本社をつくるにはこれでは面積が足りないので、容積をいっぱいに使った案をもうひとつ提出しまして、そちらのほうが建っています。来年の初めには完成するみたいです。

ここがエクゼクティブフロアで社長室とかレセプションホールとかをつくります。これはちょうど湘南台が終わって二国と並行して、二国が終わった後にまとめたプロジェクトです。

これが先程の、ブリッジを渡って屋上に入って、その下にプログラムがあるという崖っぷちの別荘です。

パブリックな場所の構想(2)
江ノ島プロジェクト
江ノ島プロジェクト
これは江ノ島のプロジェクトの初期の案です。宙に浮いた120メートルの客室棟があります。

これがお金を稼ぐ客室と宴会場です。これがちゃんとしていれば稼働するだろうということでこのコンフィギュレーションを訴えたい。全室海に向いたオーシャンビューで考えています。これはほぼ最終案の模型写真です。これをもう少しリファインして、最初にお見せしたレリーフモデルにしたわけです。

全室オーシャンビューでしかも全室テラスがついていまして、一室あたり20坪とか、そういう高級なパーティルームというコンセプトのホテルです。

これがキラー通り沿いのプロジェクトの第一次案です。都市に丘をつくるというコンセプトで企画書をつくって提案して仕事をもらいました。1階にパブリックな場にするには土地の値段が高すぎるので屋上を全部公園にしましょう。そこにシンボルツリーを植えます。

夕日の見える、西新宿のビルが見える方向にフィットネスクラブのプールをつくります。計画が変わってきまして、これが展覧会に出したコンセプトモデルです。最終案の一歩手前ぐらいです。

これが先ほど説明しました斜めの壁の広場です。

ネオフォルマ展
ネオフォルマ展
これはそれを基にアクシスのネオフォルマ展という、團君がオルガナイザーをした展覧会に出品した模型とドローイングです。模型はアンフィシアターの部分です。ドローイングはタワーを現わしているのですが、このドローイングの意味というのは、結局建築というのは生の状態を死の状態と共に構想しなければならないと考えていまして、生きている状態というのがつまりはプログラムが機能している部分です。プログラムが死に絶えた場合、死の状態、このときは何らかの町のコンテクストとして、あるいは人びとの記憶に残り愛される形として、モニュメントなりシンボルとして残りうるかどうか。それをエロスとタナトスというふうに読み替えます。エロスというのは生の本能ですし、タナトスというのは死の本能ですね。そのエロスとタナトスとの共存が建築の場合には常に考えられるわけで、プログラムを詰めながらプログラムが死に絶えた廃虚の状態を考えなければならないと思っているわけです。エロスの部分について一番有名な言葉はル・コルビジェの「住宅は住むための機械である」。この言葉が非常に歪んだ解釈をされて「機能主義」と一面的にいわれるわけです。それと対照的なのがアドルフ・ロースの「真の建築とはお墓とモニュメントの内にしかない」という言葉でしてロースはそういうことを考えていた節がある。おそらく本格派の建築家はみんなそういうことを考えていて、最初からお墓やモニュメントをつくっている人もいますけれど、僕もそういうことはやはり考えなくてはいけないんじゃないかと思っているのです。モニュメントというと大袈裟ですが、プログラムが死に絶えたときに建築もまた死に絶えるのだと、巨額なお金、たいへんな労力を使うものとしてはあまりに不毛ではないかと思います。いろんな形で人類に何らかの文化遺産を残していけるように考えていきたいと思っていましす。 そういう意味で生の本能と死の本能を共存させるべく、永遠の形式として建築を捉えるという意図にもとづいたドローイングになっています。

これがほぼ最終案の模型です。やはり屋上にアンフィシアターがあって西を向いています。これはコンクリートの打ち放しで全部つくられる予定が、僕は他の建物が全部核爆発とか終末的な状況に至った場合でも、僕の建築だけは何か残るような、そんな気が勝手にしまして、そういうときに人類最後の夕日をたったふたり残った男女がこのアンフィシアターで眺めるというような、そんなシーンを思い描いてつくってもいます。

延べ2,500坪くらいで、地下をけっこう掘るので工期が約20ヶ月かかります。今設計終了で年内に着工しても、できるのは再来年の夏ということになります。OXYでもD-HOTELでもそうですが、どんどんと人間も変わりますから建築の場合は足の裏を靴の底側から掻いているような歯痒いところがありまして、表現の方法としては非常に迂遠な回路だなと。だから単純な表現と捉えるんやったらよっぽど絵を描いていたりするほうがいいとおもうんですけれども、さまざまな人びとの手が関わる表現の間接性というものをネガティブに捉えるとそういう歯痒さになりますが、ポジティブに捉えるならさまざまな人の手を経ることによって自分の投げた一石が普遍的な価値をもつ物に磨き上げられていくプロセスを経ることができるといえます。そのような気持ちで工事の間は現場をスーパーバイズしているつもりで、初心を忘れると非常に悲惨なことになりますけれども、あまり初心に捕らわれすぎると何となくあんまり時代の風を孕まんようになる。その辺が難しいところやなあと思いますし、自分で自分の何年か前を考えていたことが立ち上がってくると変わったはずの自分がそれにまた影響を受けるところもあるし、変わっているつもりでも変わらんところがいっぱいあるなとも思ったりします。東京にいって13年の間にいろいろ変わったと思っていたのですが、10年ちょい前ぐらいに手掛けていたプロジェクトを、見てみると、けっこうあまり今と変わってないのやないかなあと感じたりもします。

西新宿ビル
西新宿ビル
坂本龍馬記念館コンペ
坂本龍馬記念館コンペ
これはさっき屋上の部分だけをお見せした西新宿のディベロッパーの本社ビルのプロジェクトです。低層部がコンファレンスホールとかミーティングのパブリックゾーン。ここが階高5.4メートルのプライベートなオフィスゾーン。ここがレセプションとかエクゼクティブのセミパブリックな場所という区分けになっています。

これが去年の夏にやりました龍馬記念館の応募案です。ほとんどすべての部分を地下に埋めて海に向けての眺望をとる。敷地全体にして列柱と大階段の変形であるアンフィシアターとブリッジと塔が明解に出てきて、それらがある意味で未完結なイオン状態になりかけているんじゃないかなと、今にして思えば見えます。

何者かと交信するような気配を込められればいいなと思っています。

実作のプログラム分析
これから実作をいくつか見てもらいます。これはMARUYO代官坂。ディベロッパーの本社ビルとしてつくったものです。1984年に完成しています。この頃は都市の断片性ということを非常に考えていまして、断片と断片との関係をどういうふうにつくり上げるかというおことに感心がありました。当初の計画としてはこれがプロムナードとして坂道沿いに伸びていくように計画されていたのですが、諸般の事情でここだけ建っています。

OXYとかD-HOTELは前面道路が非常に広いので大きなスケールをもってきたのですけれど、ここの建物は前面道路が6メートルくらいで人も車もゆっくり通る道ですので、スケールを分節してさまざまな材料を使っています。

OXYは1987年に完成しています。敷地を見たときに、都市の不連続点で非常に見通しのいい場所ですし、まわりに饒舌な建物が多かったのと、ここが交通量が激しいのと北東向きなのといろいろあって、あまり無条件に外に対して身を開くのははばかられましたので、ほとんど窓を取らずに壁だけをつくろうと思いまして、もっともシンボリックな機能をもっているプレスルームというプログラムだけにシンボリックな窓を開けました。

これが遠望です。こちらのほうが現実の町に溶け込んでいる感じがありまして、僕がこれを計画していたときはやはりこちらのほうの風景を思い描いていました。つまり隣の建物をよしと認めるわけやないけれど、町に建つ限りは連帯せんとしゃあないので、他の建物にある種の毅然とした態度を示しながら何となく馴染むというようなことができへんかなろ。

外に対しては非常に表現を抑えたので、内部に関してはいろいろ工夫をしましてガラスとかスティールとかさまざまなもので若干禁欲しながら饒舌しています。

これが空間としての最初の構想を一番よく現わしているもので、この建物には柱らしい柱はこの一本しかないんです。僕は構造的には薄肉ラーメン、薄肉壁床といいますけれども、ボイドスラブをつかったコンクリートのモノリシックな構造体がわりと好きです。というのは梁があまり好きじゃないので、柱梁の構造を避けてきたふうがあります。この建物でも柱を取らないでおこうと思ったのですが、どうも一本ぐらいないともちそうにない。じゃあおもいっきりシンボリックに建ててやろうということで、この建物では一本の柱がずっと地下から乃木坂の丘の上に30メートルの高さまで立ち上がって、そこに果実が実るような形で建物の機能がついていきますというストーリーを組み立てています。

一階はもともとミーティングスペースとかアートスペースと呼んでいたのですが、ディスプレイができるようなスペースで、ここでこのクライアントが町に情報を発信するんだと考えていました。ですから誰もがここに入ってこられるし何らかの情報が得られるというふうに考えていたのですが、オペレーションの問題などがうまくいかなくて、こんな都心の一等地に売り上げもないようなものをつくっておくのはもったいないやないかという社長の一言でもって喫茶店に変わりました。今は倉俣史朗さんのデザインによる喫茶店になっています。

この建物は敷地が60坪しかないのですが、60坪の中で前面道路が計画道路なので道路から4.5メートルぐらいセットバックせなあかん。実際建物が建てられる場所は40坪切ります。そういうところで何ができるかというと、これはあまりごちゃごちゃ饒舌しているとパワーが出えへんな。僕は強い建物をつくりたいと思っていますから我慢した方が強いかな、と他の表現を我慢して壁に絞ってやった。

OXY乃木坂
OXY乃木坂
ところがある日現場監督をして竣工間際なんですが、乃木坂の駅を出て地下鉄の出口から見上げるとここに大きな階段がありまして、これを基壇と見立ててその上に建っていると見れば非常にいいやないか。 これは先程のエロスとタナトスの話で、出会いの場というのはもちろん人と人が出会うのですが、人と物が出会うことを建築家は考えながら実際は物と物との出会い方しか図面を引くことはできないわけです。人がいっぱいおっても、人が消えた場面でも共に生きるというか新しい形で生きられるような建物でないとあかんと思っています。

これがD-HOTELです。場所が場所なのでいろいろ考えました。これも敷地が60坪で、OXYとほとんどコンテクストが近い。 OXYがファッションメーカーのオフィスとスタジオとプレスルームとブティックとバーという機能で、こちらはホテル。プログラムは非常に違いますがコンテクストが非常に近いので形が近くなったと考えています。前面道路が非常に広くて交通量が激しくて、回りの町にそれほど信頼がおけなくて、敷地が60坪で容積率が500%で角地で、あらゆる意味で近い。こちらにはOXYより、より大きな壁をつくって、町全体のゲートとして構想しよう。ここが何か西から渡ってくる大阪の新しい脈動を受けとめられるものになればいいなと。僕は自分が考えている建物が短くて百年、人間なんか死に絶えて宇宙人が来る頃どうなっているかということすら考えるほうですので、この建物もOXYもプログラムとかがどうせ使われていくうちに微妙に調整されていく。だから基本的にもこの壁なりこういった大きな表現が町に対していい意味で使用してくれればいいし、これが人びとに愛着をもって迎え入れられればいいなと夢見ています。オーナーもホテルを構想するときに、表からはホテルか何か分からへんようなものでええんとちゃいますかということで意向が一致しまして、何があるか分からんというものつくってたかだか12室の非常にプライベートなホテルですから、そういったシークレットな部分をきっちりと保護してやれるだけの厚い壁をとってやろうと思ったのです。

D-HOTEL大阪
D-HOTEL大阪
最上階はディサムバーといいまして、これはネーミングもグラフィックもわれわれの仲間でつけました。メニュー構成も考えましたがこちらはいろいろな調整が働いて当初とは変わっていっています。容積率500%ぐらいで高さが9階建てのようなものをつくるのですからスカスカになるはずで、こういう部分をばっと抜いて空を見せてやるというのが僕はわりと好きで、一番最初の建物からすかっと抜けて空が見えるところが必ずあるんです。この建物ではそれが一番大々的に出ました。こういう裏切りの形が建築のつくり方では一番の醍醐味ですね。

抜けていくというのがすごく好きで、これも真中の部分が避難経路でもあるのですが上まで抜けていく。大きく囲ってあちこちをすぽすぽ抜いていくような感じが本能的にあるようなところがあります。ですから裏から見るとこういう格好になっていまして、ここが道頓堀の西の入り口の部分に面した切断された壁の部分。ピンを出すのは不可能なので面木を入れているのですが、25ミリで入れて、一応これで補修なしで打ててきまして施工会社が素晴らしいテクニックを見せてくれました。

一階の部分がパブリックゾーンとしてのギャラリー。最近、ギャラリーカフェとかギャラリーショットバーみたいな設えをしているので是非いらして下さい。こちらは典型的なゲストルームの内部です。コバを見せるというようなデザインを心掛けています。つまり未完成なデザインであって風通しがよいというのは、僕は、手法的なものですが、コバを見せる、エッジを見せるというところにひとつの可能性をみています。ただそういうのも槙さんがやると非常に上手すぎてなんやいう感じになってしまってTEPIAなんか見るとガックリきますけれどね。

コンテクストを読むことの大切さ
強羅花壇
強羅花壇
強羅花壇
最後に強羅花壇を見ていただいて終わりにしようと思います。D-HOTELまでの作品は構想は1985年くらいまでにしていまして、実現したのがたまたま今年になったのですが、この箱根の強羅花壇が一番アップツゥデイトで先ほどのパブリックの考え方というのが一番よく出ている。素材に関してはいろいろ考え方があると思うのですが。僕はコンテクストを読むことは非常に重要だと思っています。自分の建築の方法として、まずプログラムを分析すること、プログラムを分析しつつ最終的にはプログラムを越えようと思っているのですが、プログラムがひとつの軸です。もうひとつがコンテクスト。物理的なコンテクストだけではなく文化的なコンテクストも含めてあらゆる意味で僕はコンテクストが重要だと思ってます。ここは大自然の中で非常に恵まれた環境にありまして、都市に対して悪態をつく必要もないのでガンガンコンクリートで壁をつくるのは止めにして、一見回りを信頼したようなつくりをしています。実はそうでもないのですが。淡路島の山田脩二さんといっしょにやった敷瓦とか、列柱の木とか、大きな壁の漆喰とか、そういった素材を選びましたのは、これはプログラムが和風旅館だということで、これをネガティブな意味にとらずにポジティブに受け入れて、さまざまな素材を許容する形で計画ができるんじゃないかと思いまして、こういう素材にいろいろトライしています。

ですから自分の建物の中でまさか屋根瓦を使うとは思ってもいませんでしたし、銅板葺とかいろいろあるのですがそれなりに面白い経験をしました。

これが120メートルの大列柱廊です。本当はこういう扉もあまりつけたくなかったのですが、箱根は冬が寒いというので一応こういう扉をつけております。

列柱はこのように光に感応するわけです。だから列柱があるから初めて光が見えると思うのです。列柱があるから初めて風を感じるし列柱があるから初めて見ずを発見する。人間にはオブスタクル、障壁、抵抗があって初めて物が発見できるというようなことがあると思うので、このような物として壁も捉えているし柱も捉えています。しょせん壁とか柱は本当はなくて居住空間が支えられればいいのですが、必要悪としてどうしても存在せなしゃあないわけですが、それを取り払っていく方向に未来を見たミース・ファン・デル・ローエのような建築家のつくり上げた建築空間が基本的には人間をスポイルするものになったと思っています。つまり完全な均質空間で柱も壁もなにもないところで空調も完全にきいて、無限に天上と床がフラットに繋がって、さあ、あなたたちでここで何をやってもいいですよ。自由に間仕切って自由に使って下さいといわれたときに、人間はそういう空間に投げ出されたら実はなにもできなくなると、ただそこに一本の木があったり柱があったり、壁があったりするとそこに向けて人間は何かの意味を見いだして、それからその壁に穴を開けたいとか柱を倒したいとか木を育てたいとか価値を見いだしていくと思います。そういった物として壁とか柱を考えています。

強羅花壇
強羅花壇
よっぽどのテクノロジーの進歩がない限り、おそらく人類の居住空間は重力がある限りは柱と壁とによって支えざるを得ないので、どうしても柱と壁の存在形式ということに意を払わざるを得ないと思っていますし、柱と壁を使って光や風や水や、それから人、人がまたきれいに見えると考えています。列柱をずっと見え隠れしながら歩いていく。そういうふうなものと出会っていくような風景をつくりたい。

これはガラスブロックの滝でこれがガラスブロックの池。水路からざあっと水が流れてガラスブロックの裏側には宴会場のロビーがあります。ガラスブロックの池の下にはプールのホールがあります。

これがプールの屋根です。

これはこの敷地全体の要の場所に建つ、旧閑院宮別邸といって宮様の別邸です。ここを出発点としてこの旅館は始まったのです。ここを出発点に旅館が増築に増築を重ねていたものを、ここと離れを残してすべて取り壊して新しく新築したと。今回のプランニングもここを基点として出発しています。

ほとんどが崖っぷちにありますから地下に埋められたようなかっこうでつくられていますが、ここは平坦部の地下にあるプールです。和風ということをどのように捉えるかということに関わるんですが、もともとプールというプログラムは和風にはありませんから、プールはプールで地下に洞窟をくりぬいたような形でつくればいいかなと考えたわけです。

こういうふうに突然へんてこりんな物が見える風景をつくっていこうと思いまして、これはいろんな材料やいろんな形が集合していて、実際それも狙ったわけですが、非常にクラシカルなプランニングに統御されています。発想したときがちょうど一連のコンペを終わったころだったものですから、クラシシズムの可能性を問う、という意識が続いていたわけです。

クラシシズムの方法に基礎を置くということで、和風ではあってもインターナショナルに通用する建築でありたいというような思いを表現しているのと、もうひとつは敷地の地形を細かく読み込んで、それに対応していくことで、そのクラシカルなプランニングが崩れていくところに和風との出会いを見る。日本というのは基本的に様式を崩していくところに独自の様式を洗練させた美学をつくり上げた民族ですから、崩していくというところに和の精神を見出して、その崩した部分に純粋な和風に建築が置かれるというふうになっています。

物の存在形式しか建築家はデザインできませんけれども、空間というのは物の存在が消え去ったところに残るある種の気配のようなもの。それが記憶に刻み込まれて空間として知覚される。それは人間が本能的に知覚できるものじゃないか。そういうところを決して忘れずに、つまり表面的な形の遊びに走らずに、一本柱を建てるとそこを訪れる光や風や水や人の意識や、それから物理的な力が発生して、そういったものに反応した物の存在のあり方をつくりたいなと思っていますし、そういうふうな物の存在のあり方を通して何か、しょせん柱や梁やガラス窓や、そういったものを使ってつくり上げていくプリミティヴな世界ですけれども、そういったところに創造力を飛躍させるような世界を表現できるんじゃないかなと思っています。

どうもありがとうございました。

不連続都市
竹山 聖SEI TAKEYAMA

不連続都市-竹山 聖
都市を「不連続」という言葉であらわすとき、それはスピードが加速されていく現代のありようであり、その中で宇宙論やニュートン力学、量子力学、エネルギーと断片がそれぞれざまざまな論理をもち、それぞれ違ったスケールをもつ。

ギャラリー・間で開催した不連続都市の展覧会を中心に、都市について語る。

荒川に橋がかかっているのですが、ブリッジというのがやはり異界を構築する非常に重要な要素で、橋というのは昔からアジール、これはドイツ語ですが公権力のおよばない場所。日本でも河原乞食とか橋の下で生まれたんやろとかいろいろありますが、橋はふたつの領域を繋ぎながら区切る特別な場所です。橋の上では宙吊りになった状況が生まれるわけで、橋が落ちたら元も子もありません。そういう橋のもっているようなパワーや潜在力をこの異界につくり上げたいと。それから壁をつくる。それから列柱と大きな階段と塔、そういったものが特別の思いを込めて使われています。

Profile
■略歴
1954
大阪生まれ/dd>
1977
京都大学建築学科卒業、東京大学大学院入学原広司研究室に入る
1979
東京大学大学院修士課程を修了、博士課程に進学
友人たちと設計組織アモルフを結成、設計活動開始
1982-84
東京理科大学講師
1983
株式会社設計組織アモルフ設立、代表となる
1984
東京大学大学院博士課程を修了
1985-87
日本大学講師
1987
武蔵工業大学客員講師
1988
東京理科大学講師、IFI講師
1988-
昭和女子大学客員講師
■受賞
1971
SDレビュー1982入選(高尾の歯科医院+住宅)
1982
SDレビュー1983入選(古河の歯科医院+住宅)
1983
湘南台文化センターコンペ二等入選 第二国立劇場コンペ(上位30位入選)
愛知県新文化会館コンペ佳作
1985/dt>
吉岡賞<新建築住宅特集・新人賞>受賞
■代表論文
「Tadao Ando:Heir to a Tradition」 Perspecta 20-The Yale Architectural Jpirnal, The MIT Press 「ショッキング・アーキテクチュアをめぐる断章」極一・結昌、学芸出版 「交感するデザイン」共同編集・執筆、六耀社(毎日デザイン賞受賞)

■主要作品
「高尾の歯科医院+住宅」「古河の歯科医院+住宅」「MARUYO代官坂」「OXY乃木坂」「軽井沢の別荘(吉岡賞受賞)」「D-HOTEL大阪」